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40代で静岡にUターン転職、その後45歳で横浜にJターン転職してホテル業へ。|私の転職体験談

転職前

BEFORE
職業
マンション管理会社
職種
管理人業務
従業員規模
10名
年収
200万円

転職後

AFTER
職業
サービス業(ホテル)
職種
ホールスタッフ
従業員規模
60名
年収
350万円

目次

やるやるくんさんの転職ストーリー

1これまでの私

ストレスフルな都会の生活から離れようと、静岡へUターン転職。

イメージ図:ストレスフルな都会を離れて静岡へUターン転職

今から4年前の2015年、41歳の時に地元静岡にUターン転職しました。

それまでは都会でIT関連の企業で働いていましたが、とにかく仕事のストレスが強くて。

(一度きりの人生だし、もっと普段の生活を楽しもう)

そう思い、静岡に居を移してからは、数年間はのんびりした田舎生活──まさに、スローライフを楽しみました。

地域の人とのコミュニケーションを大切にして、ふとした触れ合いや地域イベントに参加したり、そんな毎日でした。

2転職のきっかけ

毎日のスローライフは、退屈でもあった。

イメージ図:年収200万円で退屈な生活。都会に戻ることに。

毎日のスローライフ──、
初めは非常に楽しんでいたのですが、そのうちだんだんやることがなくなって、「…なんか、退屈だな…」と感じる日々が多くなってきました。

私は特に趣味もなく、毎日夕方以降にやることと言ったらお酒を飲むことくらいだったのです。

(もしかしたら、オレは都会の生活の方が合っていたのかもしれない…)

ある日、そんな想いを妻に相談しました。

妻は私の移り気の早さに呆れた顔をしましたが、その妻の方も同じような感情を抱いていたようです。
結局、私たち夫婦は4年間続いた田舎でのスローライフに終止符を打って、再度都会の生活をすることに決めました。

もうひとつ、「生活を変えよう」と思ったきっかけがありまして。
それは、収入が低かったということです。

当時私の仕事は「マンション管理人」。年収は200万円でした。
いかに田舎暮らしといっても、その金額では食べていくのに精一杯です。

しかも、都会も田舎も、今や物価ってほとんど変わらないんですよね。
まあ、都会と比べると娯楽施設がほとんどないので、近所の人と飲んだりするくらいしかお金を使わずに済む、というのはありますが。

丁度仕事先で新人が入ってくるタイミングがあったので、それをきっかけに会社を辞め、都会に戻るための準備を始めました。

3転職中

東京に戻ってきたは良いが、仕事が決まらない。

イメージ図:派遣で1年勤務した後、ホテル業界へ転職。

私たちは静岡から横浜へと生活の地を移しました。そして、それから転職活動を行いました。

──とにかく、苦労しました。
求人はたくさんあっても、私の年齢で、かつ「未経験も可」としている企業はなかなか見つけられなかったからです。
面接にこぎつけても、そこから内定を提示してくれる企業はありませんでした。

頼りになったのは、妻の存在でした。私を置いて、彼女は早々と就職が決まったのです。

それがあって、私たちは何とか生活することができました。

(とはいえ、オレも早く仕事を始めないと…)

そう考え、私は派遣会社へ登録しました。
本当は正社員が良かったのですが、とにかく決まらないのなら、早く働く必要がありましたし、「派遣社員として働きながら、転職活動は続けていこう」という考えもあったからです。

派遣の仕事では、初めは未経験でもできる仕事を優先して選んでいました。

ですが、その場合は1ヵ所での配属期間も短かったりして。それで少しでも長く働ける仕事を見つけたいと思い、派遣会社の方からアドバイスを受けて「ホテル業界での仕事」を中心に仕事をするようにしました。

派遣社員として働いてからも、転職活動は続けました。
その甲斐もあって、1年後に、ホテルブランドへの正社員就職が決まりました。

これまでの、派遣でのホテル業務の経験が活かされてのことでした。

4転職後

配属先の上司は、二回り近い年下の女性。

イメージ図:

新しい職場にて、私の教育係は20代後半の女性でした。

彼女の担当は私を含めて3人いました。
私はその中でダントツの年長者(44歳)です。きっと、彼女も私を指導するのは気を遣って大変だったと思います。

注意されることも多々ありました。
ですが彼女はなんというか、年上の部下の扱いがうまかった、といいますか、いつも優しい感じで注意してくれました。
それで私もより素直に注意を受け入れることができました。

教育期間を終え一人で業務を行うようになって、そこで私は改めて、このホテルのスタッフ全員が、非常に意識高く仕事をしていることに気づきました。

一番印象的でしたのは、私が大きなミスをした時です。

その時、他のスタッフは全員、「お客様のことを一番に」と、とても連携のとれた対応を取って、被害を最小限に留めたのです。
事態が収束されるまでは誰一人、ミスをした私に対して怒ることはありませんでした。誰もがお客様のためを思って行動していた
のです。

もちろん、その後に私はミスについて注意されました。ですが、それも怒鳴られたりとかそういったことは一切なく、理路整然とした注意でした。
──何と言いますか、それがまた、余計に心に響きましたね。

(もう二度とミスをしない様に、そして、この人たちに早く追いつけるように、頑張ろう)

──そう、思いました。

5その後、どうなったか。

私が求めていたのは、仕事を含めて「楽しく生活すること」。

イメージ図:私が求めていたのは、仕事を含めて「楽しく生活すること」でした。

実は私は、以前まで部下に対して怒鳴って注意したり、ということはよくやっていましたし、当たり前のことだと思っていました。
もちろん、そういった厳しい指導は「相手にしっかり伝え、指導したい」という思いからのものです。

今のホテルブランドに勤務して学べたことは、「注意するときに、怒鳴ったりしなくても、相手にしっかり伝えていくことはできる」ということす。

怒られるときって、理性では本人が一番分かっていたりするんですよね。
でも、怒鳴られると感情が委縮して、それをうまく伝えられなくなったり、変に反発したりすることもあるでしょう。転職して立場が下になったことによって、それを自分事として感じることができました。

つまり、人何かを伝える上で大事なことは、「どうしたら相手に言いたいことがしっかり伝わり、改善に向かうのか」ということだと考えるようになりました。
怒鳴ってしまっては、肝心の要点が頭に入ってこないこともあるのです。

今の職場では、私がスタッフの中で一番の年長者です。ですが、先輩スタッフの方は皆、年齢に関係なくしっかりと私のことを指導してくれます。

私としても、そんな環境の中で働くことに強いやりがいを持てています。
そして、そこで正当な評価をしてもらえ、かつ多くのことが学べることに嬉しさも感じています。

◇ ◇ ◇

私は一度ストレスが原因で田舎暮らしをしましたが、結局こうやってまた都会に戻ってきて、今は楽しく仕事をしています。

結局、私が求めていたのは「生活の楽しさ」だったのでしょう。
そして、そのためには「仕事自体も楽しむこと」が大切だった。

だから私は、「単に仕事をするのではなく楽しみを見つけながら仕事ができる」ということを大事に考えていきたいと思っています。
そして、そこで思ったこと、感じたことを、これから働いていく若い人達に伝えていきたいと思っています。

今私たちのホテルブランドは、事業拡大の計画があって、これから多くのスタッフが採用されてくるそうです。
私も指導する側になります。

その時は、「一生懸命で、かつ楽しんで仕事ができる」──そんな風に指導できる人になれれば良いな、と思いますね。

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