私の転職体験談:その選択は、「逃げ」か「チャレンジ」か。──仏具専門店の販売から、医療事務に転職!
転職前
- 職業
- 仏具専門店
- 職種
- 販売事務
- 従業員規模
- 100人未満
- 年収
- 300万~400万
- 会社名
転職後
- 職業
- 個人医院
- 職種
- 医療事務・受付
- 従業員規模
- 20人未満
- 年収
- 400万~500万
- 会社名
目次
shihoさんの転職ストーリー
1これまでの私
販売という仕事は、本当に自分のやりたかった仕事だろうか。
元々地方組で、大学進学とともに京都へ出ました。
きょうだいは兄と二人、実家には両親と祖母が住んでいます。
京都で暮らしてその土地が好きになり、就活で「地元へ帰る」という選択肢はありませんでした。
私の年の就活は厳しい年でしたが、大学へリクルートに来ていた企業に応募したところ内定がもらえました。
それが、仏具専門店でした。
仏具専門店というのは、京都ならではの企業だったと思います。
小さな会社でしたが、名だたるお寺の御用達として、全国各地のお寺、仏壇店の方と関わることができました。
──私が転職を考え出したのは、26歳を過ぎてからです。
その頃には仕事にも慣れ、後輩も増えました。
ですが、
- 私
-
(販売という仕事は、本当に自分に合っているのだろうか・・・。自分は本当にこの仕事がしたかったのだろうか・・・)
当時はそんな迷いを常に抱えながら仕事をしていました。
私が仕事をする上で大切にしていたのは「人に喜んでもらえること」でした。
仏具を販売し、事務をする中で、もちろんお客様に喜んでもらえることはありました。
事務では、仏具の修理も扱っていたため、お客様の思い出のつまったものを預かることもあったからです。
ですが、それ以上に、販売ノルマのプレッシャーがあって。更には、小さい会社ならではの人間関係に悩まされることの方が多かったのです。
2転職のきっかけ
転職のきっかけは、自分自身の心の問題と、父の病気。
転職しようと思ったのは、自分自身の心が限界だと感じたことと、父の病気が発覚したことでした。
当時、失敗を重ね、上司とうまくいかず、同期にも相談できず、元々涙もろい自分が「泣けない」状態になっていることに気づきました。
そこへ、父の病気の知らせが入り、糸が切れたように思います。
働き出してから、私の頭の中にずっと頭の中にあったのは、医療事務という仕事でした。
元々、大学のときにアルバイトで医療関係の仕事をしており、そこで感じた充実感や、喜びが忘れられなかったのです。
就活のときは、「一般企業で働く方が、視野が広がるのではないか」と思い諦めていました。
ですが、自分の思っていた仕事とかけ離れた現状と、父の病気が発覚したことで、もう一度、少しでも医療に携わる仕事をしてみたいと思うようになりました。
3転職中
「あなたをずっと待っていた」
アルバイトをしていたとはいえ、医療事務の知識は皆無でした。
だから、まずは資格を取ろうと考え、仕事の休みを全て医療事務の学校に充てました。
仕事が不定休だったため、京都校だけではスムーズな受講ができなかったので、大阪や神戸まで受講にいき、朝から夕方まで缶詰状態でした。
休みがほぼ学校で潰れ、仕事の日も帰ってから復習をする毎日でした。
体力的には辛かったのだと思いますが、自分がやりたいことだったからか、精神的に辛いとは思いませんでした。
医療事務の仕事は、働き出してから感じましたが、正直資格がなくても始められる仕事です。
ですが、学校に通うことで、指導してくださった先生から
- 学校の先生
-
「あなたは医療事務という仕事をする人として、本当に最適だと思う」
と言われたことは、医療事務を続ける上で、励みになりました。今でも、嬉しい言葉ですし、その言葉のおかげで医療事務を続けられたように思います。
そのように言ってくださった先生が、キャリアアドバイザーとして、多くの方を見てこられた方だったからこそ、太鼓判を押されたような気がしたのかもしれません。
結局私は、アルバイトをしていた医療機関へ、医療事務員として転職しました。
そのとき、勤務先の先生やスタッフの方から
- 職場の皆さん
-
「あなたのこと、ずっと待ってたんですよ」
と言っていただいたことは、生涯忘れられません。
4転職後
大変なことも多々あったけれど、それ以上に「仕事への喜び」を感じられて。
いうなれば、アルバイト先への出戻りなので、転職先としては恵まれた環境だったと思います。
ですが、医療事務の業界は2年ごとに改正があり、さらに私がいたころとは違い、電子カルテの導入などもされていたため、学校の授業で習ったことは、基礎知識以外、ほとんど役に立ちませんでした。
どちらかというと、学校より狭く深い知識が求められることが多く、さらにアルバイト時代には感じなかった女性同士の人間関係の難しさも痛感しました。
また、人気のある先生だったので、朝7時半ごろ出勤して、途中休憩はあるにせよ、帰宅が22時前になることも多かったので、体力的な厳しさはありました。
それでも、どちらかというと全てにおいて「楽しい」と思える自分がいました。
そして、患者さんから「ありがとう」と言われるたび、嬉しかったですし、大げさにいえば仏具店のときは全否定された、自分自身の存在や、価値が認められたように感じ、さらに仕事への喜びに変わっていたように思います。
5その後、どうなったか
振り返って、就職や転職時に私が取った選択・行動について感じることは。
医療事務をする前の自分は、医療事務をすることに対して、なんとなく「楽な方へ逃げているのではないか」と感じていました。
アルバイトで感じた喜びが、正社員として働いたとき得られるかどうか不安だったのだと思います。
ですが、実際に医療事務で働き出したとき、むしろ、就活をして違う会社で働いたことの方が逃げだったのかもしれないと感じました。
大学のリクルートで来ていた企業なら、内定が取りやすかったことと、とりあえず働ける会社があればどこでもいい、どこに行っても働く喜びは見つけられるはず、と簡単に思っていたように思います。もちろん、仏具店で働いたことで、今まで知らなかった世界やマナーを学んだり、自分自身の役に立つことはありました。
当時上司から指摘されたことは、ただの八つ当たりや嫌味ではなく、私を向上させようと思っての助言だったのだと、今は思うことができます。
あのときもう少し我慢して、自分の努力ができれば、もしかしたら「違う自分」になれたのかもしれません。
◇ ◇ ◇
その後、私は結婚して地元へ帰ることになり、転職先を離れることになりました。
現在、在宅でフリーランスとして活動する計画を立てています。
京都と地元とでは、最低賃金から格差があり、同じように医療事務で働いた際に今までの生活水準を保つことができないからです。
また、今後子どもが出来た場合に、収入面を支えていく上で、外で働くよりも、在宅で仕事をするほうが良いだろう、と考えました。
──結婚してからは、夫やその両親、そして自分自身の両親と、これからできるかもしれない子どもと、自分自身以外のことも考えなければならなくなりました。
医療事務への転職は5年前でしたが、今また「在宅での仕事の確立」という新しいチャレンジを迎え、「現実的に考え、守らなければならない人を全て守れるように」という想いで、取り組んでいます。